日本でも大人気のチョコレート。日本のチョコレートは、どのような歩みを辿り今日に至っているのかを紐解いて見ましょう。
日本でのチョコレートの普及
日本にココアやチョコレートが普及するようになるのは、20世紀に入ってからのことです。
チョコレートを商品化した米津風月堂
国産の商品が作られるようになったのはココアよりもチョコレートのほうが早く、日本で最初にチョコレートを商品化したのは、東京日本橋の「米津風月堂」でした。1878年の12月24日の新聞に「貯古齢糖」・25日に「猪口令糖」として広告を出しています。
しかし、これはカカオ豆からチョコレートを作ったのではなく、原料のチョコレートを輸入して加工したものだったようです。
カカオからチョコレート製造をした森永製菓
カカオ豆からのチョコレート製造を手がけたのは、森永製菓でした。
アメリカから機械を買い付け技師を招聘して、1918年にビターチョコレートとミルクチョコレートの生産を開始します。これより先に森永製菓は、ロウントリー社と提携して輸入ココアを扱っていましたが、1919年には国産のミルクココアの製造にも着手します。
なお、1921年には「貧困調査」でも功績を残したシーボーム・ロウントリーが夫人とともに日本を訪れ、森永のコーディネートにより、労働問題などの講演を各地で行いました。
国産が始まったと言っても、当時森永ミルクチョコレートの値段は女工の1日分の賃金の半分にも及ぶものであり、高価な贅沢品であったことは言うまでもありません。
1926年には、明治製菓もドイツから機械を購入してカカオからのチョコレート製造を開始します。
戦乱によるチョコレート暗黒時代
大正から昭和にかけてチョコレートは広く一般にも普及していきましたが、日中戦争の勃発とその後の戦局の悪化により、暗黒の時代に入ります。チョコレートの生産はかろうじて続けられたものの、もっぱら軍用で庶民の口には入らないものでした。手軽に高いカロリーを摂取できるチョコレートは、まさに兵士のためのものだったのです。
やがて終戦を迎え、ココアにグルコースというブドウ糖を添加したものが、チョコレートの代用品として普及した時期がありました。戦後5年が経過した昭和25年、カカオ豆の輸入が解禁になったことを受けて、森永・明治が生産を再開し、新規メーカも続々とチョコレート生産に参入していきました。
とはいえ、アメリカなどに比べると国産のチョコレートの原料費はその約4倍もかかったため、国内菓子メーカーは、外国菓子輸入禁止に関する陳情書を提出し、昭和30年に35%の関税がかけられることになりました。現在でもカカオ豆は無税ですが、カカオマスやミルクココア、チョコレートなどには、基本的に10%~35%の関税がかけられています。
海外のチョコレートが、国産メーカーに比べて割高なのはこのためです。